走ることは好きですか?

 

「走ることは好きですか?」

 

 

 

と、聞かれたら、ほんの数か月前の自分だったら、「別に」とか「特には」とか、とにかく「あまり好きではない」という感じの返事をしていたと思う。

 

 

 

そんな自分が今、ほぼ毎日走るということを日課としている。

 

 

 

そして、走ることが楽しい。楽しくて仕方がない。

 

 

 

「走る」ということに対して、小中高時代からつい最近まで、真剣に取り組んだことがなかった。「走るの早そうですね(見た目)」と言われた時の決まり文句は、「よくそういわれるんですけどね、実は遅いんですよ」だった。走ることに対して興味もなく、マラソンだとか駅伝だとかのテレビ番組があっても、その楽しさがまったくわからず、テレビ番組としてひとつのジャンルを築いていることが不思議でしょうがなかった。当然、持久走も苦手。学校のトラックを何周もしながら、「だいたいなんだって、こんな苦しい思いまでして走らなければならないんだ」とマントラのように、頭の中でいつも唱えていたのを覚えている。

 

 

 

それが、どうしたことだろう。こんな楽しいものがあったなんて知らなかった、と思うようになっている今。人生、いろいろと生きてみないことにはわからないことがあるものだと思う。山があったり、谷があったり。自分にとってそれなりに、多少は意味のある人生経験をした後だからなのだろうか。

 

 

 

人生初のマラソン大会出場(ハーフ)の申込みを数日前に済ませた。とりあえず、最初のマラソンなので、目標は「完走すること、楽しく走ること」とした。完走したらメダルもらえるし(笑)。さらに付け加えるとするなら、「○時間で走る」といったものではなく、「歩かないこと」というところだろうか。今、その目標を達成すべく、日々、自分で試行錯誤しながらトレーニングをしている。

 

 

 

なぜうまく走れないんだろう。なんで、こんなに疲れるのだろう? 体力はそこそこあるはずだし、身体的な故障もないというのに。筋肉が足りないのかな。走り方が悪いのかな。筋肉の使い方はどうだろう。股関節の使い方は? 歩く練習からしてみようか。ハムストリングスって何? っていうか、なんでそこだけカタカナの名前が付いてるの?(ま、いいけど) 腸腰筋って何? どことどこの骨がその筋肉で繋がっているの?・・・と、毎日疑問に思ったことをネットで調べては、自分で解決していっている。それが楽しい。さらに、仮説をたてて実際にやってみてそれなりに効果があったりすると、「これはすごい発見をしてしまった」という具合に、走りながらひとりでにやにや喜んでしまう。そんなことを考えながらやるおかげで、身体を動かしている間は頭も忙しい。というか、何も考えていないというべきか。わずらわしいことがあったとしても、余計なことを考えなくてすむという二次効果も得られるので、精神的にも健康になってよい。

 

 

 

やったことはすぐに効果はでない。けれど、正しい手順を踏めば、それなりの成果がちゃんと返ってくる。毎日丁寧に、小さなことを積み重ねていくことが大事なのだと、身体が教えてくれる。バランスボールのシッティングができるようになった。股関節のストレッチを続けた結果、かなり広がるようになった。腰痛がいつの間にか消えた。そういうことがいちいち嬉しい。

 

 

 

ところで、世の中には走る人がたくさんいるわけだけど、当然ながらその逆の、走らない人もたくさんいる。走らない人は、走る人のことがわからないし、知ろうともしない。数か月前の自分がそうだった。

 

 

 

走らない人は、走らないから知らないのだ。ささやかな幸せやら喜びやら、人生経験の学びに至るまで、走るということから得られるものが、ほんとうにたくさんあるということを。これは自分で気づいていくものだと思うので、人から言われてもたぶんわからない。自分から走ろうと思わない限り、走らない人はおそらく、走る楽しさを知らないまま一生を終える。もったいないことだなあ、こんなに楽しいのに、と今の自分は思う。

 

 

 

だから、「走る」ということに出会えたことは、とてもラッキーだと思う。

 

 

 

ipodに好きな曲をいろいろ入れて、走りながらランダムに聞いているわけだけど、クラプトンの「レプタイル」なんか、いいですね。曲がシンプルで飽きないし、リズムも心地いい。とても気持ちのいい風を感じながら心も身体も広がって、どこまでも走っていけそうな気がしてしまう。走っているその場所が、ジムの一角にあるランニングマシーンだったとしても。